高杉晋作も見た外白渡橋(ガーデンブリッジ)

高杉晋作日記に出てくる外白渡橋(ガーデンブリッジ)を見たかったので、家族にも付き合ってもらうことに。

道路(中山東一路)を北に向かって進みます。

途中、子供たちが公衆トイレに寄ったのですが、飲食店のコックと思われる男性が白衣を着ながら&タバコを吸いながらトイレに入っていって、それを見た息子は「うわぁ、あの人が作った料理食べたくない・・・」と漏らしていました。

「まぁ、中国と日本では衛生観念が違うのだよ」と言っておきましたが。

蘇州河の南の黄浦公園にそびえ立つのは上海市人民英雄記念塔。

黄浦公園の上海市人民英雄記念塔画像

『増補改訂版 上海歴史ガイドマップ』(木之内誠)の「黄浦公園(Public Garden)」の説明。

黄浦江の河原を埋め立て租界工部局により1868年開園。外灘公園とも。当初外国人のみに開放され、「犬と中国人入るべからず」の掲示が中国人の憤激を買ったが、1928年以降中国人の入園を認める。新中国成立後現名に。1994年東北の突端に高さ60mの上海人民英雄記念塔が完成。園内の新世紀広場では各種イベントも開かれる。

これが「外白渡橋(ガーデンブリッジ)」か。家族の反応は「え、これ?」。

外白渡橋(ガーデンブリッジ)正面画像

外白渡橋(ガーデンブリッジ)側面画像

同じく『増補改訂版 上海歴史ガイドマップ』の「外白渡橋(Garden Bridge)」の項から引用します。

現在の橋は、1907年完成の鉄骨橋。前身は1856年英人ウィルズによる木橋。虹口とバンドを結ぶ交通の要衝であったが、1991年に西側にバイパス橋ができて主役の地位を譲った(バイパス橋は2009年に撤去)。「外」人が「白」(ただ)で渡れたからといわれるその名の由来は俗説で、外側の渡し場の意の「外罷渡口」が訛ったもの。日本占領期には日本軍の検問所が設けられた。2008年春、補修のためまるごと取り外され、一年後に戻された。

幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した高杉晋作は、文久2年(1862年)5月から2ヶ月間、幕府使節随行員として上海に滞在しています。上海に初めてイギリス租界が設置されたのは1845年ですから、その17年後ですね。高杉晋作は木製時代の外白渡橋を目撃していたようで、日記にもそのことを記しています。

イギリス領事館から五、六間ほど離れ、新大橋と名付けられた橋がある。今から七年前、古い橋が朽ちて崩れてしまったが、支那人には再建する力が無かった。そこでイギリス人がこの橋を架けた。支那人は通行するたびに、イギリス人に一銭を貢がなければならないという。
『高杉晋作の「革命日記」』(一坂太郎)

新大橋というのが外白渡橋(ガーデンブリッジ)です。

日清修好条規後、上海の日本人口は急激に増えるのですが、彼らの多くが住んだのが、蘇州河を隔てて向こう側の「虹口」と呼ばれた地域。手前の外灘(バンド)エリアは欧米人と日本人の中でもエリートしか住めなかったらしい。

虹口と共同租界中心部は蘇州河で隔てられており、ガーデンブリッジで結ばれているとはいえ、その心理的障壁は大きかった。虹口の日本人は、バンドの摩天楼や音に聞く南京路を思い描き、あこがれをこめて「河向こう」と呼んだ。
『上海 多国籍都市の百年』(榎本泰子)

見たかった場所見られたので満足して、ホテルに帰ります。が、ザ・ペニンシュラ上海近くにあるタクシー乗り場で待っていてもなかなか空車のタクシーが来ません。

やっと捕まえたタクシーに、私が「Okura Garden hotel」と言って、「花園飯店」と書かれた地図を見せたが、伝わらず「(ヾノ・∀・`)ムリムリ」みたいな仕草された。次に捕まえたタクシーに、今度は妻が中国語表記の「花园饭店」の地図を見せたら通じて無事帰れた。妻頼りになるなぁ。

外灘からオークラガーデンホテル上海までのタクシー料金は21元だった。

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